生活の音
ヒトは時々、立ち止まらないと聴こえない音があるってご存知でしたか?
どうも、人生いつも立ち止まってばかりのカシューナッツです。
寒くなってきて体調をこじらせて寝込んだ時にふと聴こえている音に気づきました。
それは人が生活する音です。
窓を開けていると外から聞こえて来る音。
車の走る音、
人の足音、
自転車の通る音、
木々の揺れる音、
風の音、
近所の話し声…。
人が生きる世界には沢山の音が溢れています。
これらはスマホや画面からデジタルで聴こえてくるモノもありますが、それとは違います。
もっと立ち止まって耳を澄まさないと意外と聴こえない音です。
ああ、自分はそこにいるんだって感じ。
この日常の生活のなかに自分は居たんだってことに気づく。
ごくごく当たり前のことだけど、なかなか気づけないこと。
自然の中でひとが生きていることと同じように…
自分が日々の生活の音のなかで生きていることを思い出す。
一日一生
一日一生。そう思ってもなかなか上手くいかないカシューナッツです。
「一日一生」って聞いた事ありますか?
一日を一生分として生きる生き方を指します。
朝起きた時から人生がはじまり(生まれ)、夜眠りにつく時に、人生が終わる(死を迎える)。
そしてまた新しい人生を迎える…。
一日を一生として捉えるのだから、一日(一生)を大事にするということ。
一日を丁寧に過ごしたり、後悔の無いように物事を先延ばしにすることをやめたり、逆に一生なんだから頑張りすぎないようにしてみる…。
これはボクが仕事中にお客さんと話していて、生き急ぎ過ぎていた人に対して贈った言葉でした。
頑張り過ぎるのも人生だと思うけど、
その日を大切に、自分の事を大事に生きようと思ったら、多少の無理をしない事も人生。
「人生は100点方式ではないのだから、既にマイナスからのスタートなら加点しかないんですよ。だったら、今日100点を目指す必要はないですよね。80点でも60点でも凄いことですし、なんなら120点以上もあるんですから。」
人生に満点なんてありません。
常にプラスしかないのなら、いつもボクらは不足からのスタートの人生なんですよね。
ボクらはできないことだらけで、頭も実力もなにもかも足りない生き物。
そんな自分に少しでもなにかを足すことが出来るのなら、
昨日よりも今日なにかを身につけたのなら、
それはプラスしか人生ないと呼べますよね。
間の人
そう、ボクはいつも人と人に挟まれる男でした。
どうも、カシューナッツです。
人と人の間に立つ。
これは、ケンカの仲裁でも、見合いの仲人でもありません。
組織やグループの中にいると、よくコミュニケーションのズレが生じることが多いんですよね。
そうなると、動きが円滑に回りにくくなるので、最初は両者の話を聞き、「あの人はこう思ってるんじゃないかな?この人はああ言いたかったんじゃないかな?」とその人の一方的な視点や解釈に対して第三者の目線で客観的な意見を述べたりすることをボクもよくやっていました。
ただ、コレってなかなか上手くいかないものなんですね。
自身の視点自体がズレていれば当然、余計にコトをややこしくしてしまいますし、客観的な意見を述べるのも相手が聞ける姿勢に無ければ意味をなさない訳ですからね。
それに両者の話を聞き、それを自分の目線で客観的に述べる前にお互いの主張を観察し、掘り下げて、なにが両者の間でズレを生じさせているんだろう?と個人的にも分析したりしていたので、なかなかに疲れます。
自分が疲れれば、余計に感覚や思考が鈍るため、めんどくさくなって放置したくなってきますからね。笑
間どころでは無くなってきます。
でも、おかげで分類も出来るようになってきたんですよね。
例えば、Bさんの主張が一方的に間違っていると述べるAさんには、
「たしかにBさんの言うことは感情的過ぎるかもしれないね。それはBさんの中での課題だと思うよ。でも、Bさんも今色々と忙しくて疲れてるから感情的になって視野が狭まっているのかもしれないよね。それに気づけるのはBさん自身の問題じゃないかな?」
Aさんの意見はごもっともなんですが、Bさんの状況をよくよく観察しない上でもの申すあなたも自分のことをよく観察すべきではないですか?と言いたいのをボクは相手によっては本人に考えるスペースを用意してお伝えすることがよくあります。
別のケースでは、自分の課題と相手の課題をごちゃ混ぜにして抱え込みやすい方には、「ここまではあなたの課題だと思うけど、この部分はあの人の課題だから気にしなくていいよ。」とお伝えしてみたりしますね。
ボク自身も間ではなく、当事者ならなかなか振り返りにくいんですが、第三者の立場にいると色々見えてきやすいものなんですね。
仕事柄聞き役が多いので、話を聞きながら自分の中でこの人はああかな?こうかな?と想像を膨らませながら実際に質問できる内容は質問しつつ、答えをすり合わせ行くので、ある程度のテンプレートといいますか、傾向は見えてきやすくなるんですね。
他にも場の空気がギスギスしていればウケを狙って笑いを起こすことで場の雰囲気をゆるくしてみたり、人と人が接しやすくなるように自分がふざけることで自分をネタにしてもらいながら両者の笑いの素にすることでコミュニケーションのきっかけにするなどもしています。
ちなまにこういった「なんかそこに存在していると場の雰囲気がよくなる」という人は組織などでも重要な存在みたいなんですね。
心理学的にはそういったものをSQ(社会的知性)と呼ぶみたいです。SQはEQ(心の知性)が基盤としてあるものみたいなんですね。別名、関わりの知能指数とも言います。
以下、引用
このSQをより深めていくには、沢山人とコミュニケーションを取ることが必要なのと、自分自身の心の内面に向き合い、対話していくことが不可欠なのです。
自分の感情がどう行った時に動くのか、話してて何を思ったり感じているのを観察出来なければ他人の気持ちは推し量れませんものね。
なんとなくまとめにくいので自分の例題を出すことで少しでも足しになればなと思います。
現在地を知る
どうも、カシューナッツです。
皆さんは自分の現状をどうやって把握していますか?
これはその人によって確かめ方があると思いますのでボクのほんの一例を、と思います。
ボクは周囲で起こっている状況や自分が何に対してよく反応しているか、でなんとなく「今はこんな感じなのかな〜」と捉えるようにしています。
ですが、そんなに常にアンテナを張っているのも容量の限界があるといいますか、だんだんと疲れてくるんですよね。
ボクはこの時にやることは、まずは疲れをとるために休むのもそうなんですが、余白をつくれるように整理をしたりすることもあります。
ヒトは絶えず思考する生き物だと思っています。
この思考は主にどうでもいい事やネガティブな事を考えやすい傾向があるみたいなんですね。
それも一日に何万回も頭の中で湧いては消えての繰り返しなんですよね。
疲れてる時にそれがあると、よからぬ方向へ思考が向かっていってしまい、思い込みから感情的になって物事の判断が鈍りやすくなると思います。
なので、ボクは紙にこの湧いて来るものを書き出す作業をしたりします。
とにかく思いついたものを片っ端から書いていく。
規則性もまとめも要らない。
とにかく書く。
湧いたらほれ書く。
そんな感じです…。
書くというアウトプット作業をするだけでも案外スッキリしますし、ボクの場合は視覚で見えるようにしながら出てきた文字を眺めるとより深掘りがしやすい印象があるんです。
認知特性というものがありまして、ヒトは記憶や表現、認識する時に身体の感覚(特に視覚、聴覚、触覚)の部分を使って自分に入力したり、自分から出力する癖のような傾向があるんですね。
何かを覚える時に、写真のようにイメージで覚えるのか、文字(音)として覚えるのか、質感などで覚えるのか、と身体のどの感覚もしくわ複数を合わせて覚えるのか実は人によって違うからなんですね。
だからボクのメモ書きはほんの一例なんです。
その人によって覚え方も表現も違うからなんですね。
ただ、この現在地を知るというのは定期的にやっておくと自分の中にいつも余白ができるから気持ちにゆとりも出てきやすくなります。
ボクがこのブログを書いているのもメモしたものを広げて書いてる感じも余白作りの一環と思っています。
子どものなんでに習う
どうも、カシューナッツです。
子どもって色んなモノやコトに対して、
「ねぇ、アレはなんでこうなっているの?」
と純粋に疑問を投げかけていますよね。
自分たちも子どもの頃にはあったはずの
ねぇなんで?がいつの間にか無くなっていることに気づきました。
あの、なんで?は本当になんのフィルターもない疑問なんですよね。
ただ単にわからない。
気になったから聞く。
ただそれだけ。
そして、それに1つ答えると「じゃあコレは?コレはなんでこうなっているの?」とどんどんと深掘りの質問がはじまり大人のようで大人でないボクはすぐギブアップしてしまう…笑
ただこの質問って言葉自体に対してだったり、構造や仕組みに対してだったり、最初の入り口は外面から入り、次第に内面の部分へと深くなっていく良い質問だなぁと今更ながら思うようになりました。
(しかし、すぐギブアップしますが汗)
いつも疑問を持つこと。
この世は常にわからないことだらけ。
だから、本質へと理解を深めようとする。
それを遊びながらできる子どもたちは本当に素敵なんだなぁと思います。
色んなズレ
どうも、カシューナッツです。
ボクらは色んなところでズレが起きています。
コミュニケーション(会話における)のズレ、認識のズレ、身体のズレ、感覚のズレ、考え方(概念や方向性、こだわりなど)のズレ...
単純に違いとも言えますが、ここで言うズレはお互いが違う方向を向いていて、一致しなかったり、状況が成り立たない事を指します。
では、なんでズレが生まれるのでしょうか?
コミュニケーションで言えば、そもそも言語の違いであったり、言葉そのものにズレがあるからなんですね。
国語(日本語とか英語)の違いや方言、コミュニティ独自の言葉の違いからズレが生じたり、言葉の認識の違いやその言葉自体の解釈にバラつきがあり、個人単位から人が増える数だけ言葉の解釈や印象が変わるんですね。
言葉の認識に対しても、一般知識での認識と学者の認識では同じ言葉ひとつでも大きく差が生まれますね。
さらに育ってきた環境や文化、風習、習慣、経験を経て言葉に対する印象付けも変化しているから同じ会話でも次第に噛み合わなくなる事もあります。
不思議ですよね。一般的や常識という括りがあっても、そこに該当しなければ非常識と言われなんて違和感を覚えますよね。
そもそも言葉が不完全なのに完全な一致なんて有り得ないんですよね。
だからコミュニケーションでもズレが生じる。
しかし、この差があるからこそ、人は共感するし、しようとする。
このズレを埋めようとする事が新しいアイデアにも繋がり、ズレがあるから発想の飛躍に繋がるんですね。
ズレが前提にあることを知り、そこをどう活かすかが面白みになると思います。
閃きと結果の狭間
人に伝わるまでには時間がかかる。
どうも、カシューナッツです。
今回もポッドキャストを聴いててからなんですが、アイデアが閃いた時に、
「これいいんじゃない!?」
ってアイデアが出るとすぐ動きたくなることってありますね。
でもね…
それ案外うまくいかないことも多いんですよね。
割とココ落とし穴で、閃きとそれが形になるまでに間があることを見落としがちな事ってよくあるんですよ。
自分の感覚ではコレハイケル!ってなるだけど、周りに伝えると「はぁ?」ってなるやつ。
でそのドツボにハマっていくと、
「なんでわかってもらえないんだっ!」
ってちょっとわがままなやつ…まではいかないけど、周りからはめんどくさって見られがちになるんですね。
閃いたモノ自体は悪くない。
感性を否定するわけでもない。
でも、とっても重要なのは自分の内で生じた閃きを周りにも伝わるところに着地できるところだと思います。
自分の中に生まれた疑問。葛藤や模索する思考。その上で生じた閃きなのですからなんとか形にしたいと思うのは当然とも思われます。
(ボクもそうでしたし、よく何でだー?!ってなってました笑)
ただその出てきたものってまだ周りの人のアンテナには引っかかってないものであったり、自分なりの言葉や解釈でピンとキてることも多いのでそのまま伝えても届くはずがないんですよね。
だからこそ、周りの人に届く言葉や内容に変えたり、届く場所自体を変えたり、届ける時期やタイミング、形になるまでに時間を要することが多いんですね。
閃きと結果までのこの間の部分でいかに生み出していけるかかなとボクは思っています。
そのためにもより身体感覚を研ぎ澄ましたり、身体の深いところからより閃きを得たいものです。