カラダとココロのコト

ゆるゆると歩く道

真偽を確かめる方法

 

どうも、カシューナッツです。

 

仕事が忙しくて、気づいたら年末になってました笑

 

あなたはどうやって物事の本質を確かめますか?

その情報や物が本当に正しいのか?

自分の身体に合っているのか?

この健康グッズや体操や方法は効果はあるのか?

 

沢山の情報の海で答えはわからない…

どれが正しいのかわからない…。

 

とりあえず試してみるのはボクはよくやっています。

失敗しても痛くないものからはじめて…

 

効果の検証をひたすら繰り返す…

 

仕事上、ボクは身体の使い方やストレッチの方法、食に関するモノや健康関連ものを気にすることが多いです。

 

なのでそれらを目にしてピンと来たら試せそうなものを試しながら、自分の身体で実験を繰り返しました。

 

実験をする時に重要なのが自分の身体の感覚です。

 

身体の感覚に意識を向けておかないと変化がわからないからですね。

 

もちろん最初から感覚が優れていたわけではなかったので、身体の使い方を磨くことでそれに比例して感覚もより変わっていきました。

 

自分の身体で試してみて少しでも「これはいいな」と思えるものは相手にも試しながら相手の反応や前後での比較もしながら勉強させてもらいました。

 

これは今でも続いていますがどれだけやっても「これは全ての人に通じる」なんてものは早々ないものだなぁとよく思います。

 

それは同じ人でも常に変化しているからなんですね。

 

だからやることも方法も毎日変わる。

 

自分も水のように変わるのだから

それは目の前の相手も同様なんですよね。

 

目の前の相手に対してどれだけ真剣に向き合っているか、それこそ水のように自分が変わっていけるかだと思っています。

 

話が逸れましたが、情報が溢れ、何が本質なのかわかりにくい時代だからこそ、自分の身体の感覚を研ぎ澄ます必要が十二分にあると思うんですね。

 

直感や勘というものもボクは身体の感覚から生じていると思います。

 

だからこそ身体の使い方を続けることでより

自分にとって必要な本質や原理に辿り着くと思います。

 

 

 

内包する自分

 

「共感性、寄り添い」が高い、または優れている。

 

それは同時に「自分というものはいったいどこに居るんだろう?」とも強く思った。

 

個としての自分の存在意義に悩む日々。

 

自分がわからない。

 

自分という人間そのものがどこにあるのかわからない。

 

ころころと変わる自分の多彩さがより自分という人間の性格、表情、表現のパターンや特徴をより掴みにくくしていた。

 

 

それと同時に「ボクもあの人みたいにこんな風に羽ばたきたいなぁ。こんな場所で輝きたいなぁ。」と思うことがさらに自分への葛藤を生み出した。

 

 

でも、そんな多彩な多様な自分にお疲れ様を言えるようになって少しずつ気づくことがあった。

 

 

「自分が誰でも許し、癒しているのはこの多彩さや寄り添いがあるからなんだよな。」

 

 

無意識に氣がつくと相手の心の言いたいことが、なんとなく掴める氣がして、話していると他の人が嫌と言っていることも「まぁこの人なりにこういった理由があるものね~」と周りに説明している自分がいる。

 

 

他の人が壁と思っているコトを壁ではなく、ただ根本的なところではシンプルに

「ホントはただ寂しいだけだよね。」とか

「独りで聞いてくれる人が居ないからだよね。」とか相手の心の側に立って自然と見えてい自分がいる。

 

 

たくさんの人と関わってきたからこそ見える視点がある。

 

 

色んな人の立場や境遇に寄り添ってきたからこそわかる本音がある。

 

 

それは能力でもあり、経験でもある。

 

 

それを包める自分がいる。

 

 

これからは目の前の人だけでなく、

 

自分の手の届かない場所にいる本音にも届く

 

表現がある。

 

そんな氣がしてならない。

 

可能性はいつでもそこに在る

 

 

どうも、カシューナッツです。

 

よく自己啓発関連の本を読んでいると、

 

【チャンスはいつでも目の前にある。

自分が間口を閉じているだけだ。】

みたいな文章を目にすることがあります。

 

 

「え〜?それって自分で自分の可能性を狭めているってこと〜?」ってなるかもしれませんね。

 

 

ボクはそれもあると思っています。

 

 

なぜなら自分の興味のあるアンテナが色んなことに広く開けていればその分、そこから様々な出会いや可能性に満ちているからです。

 

 

自分自身を信じられなかったり、落ち込んでいる時には自分の負の部分にしか目が向いていないので自分の可能性を自分で潰しにいこうとしがちです。

(ボクはよくあります汗)

 

 

少し話が逸れますが、この自分自身を信じられない時も必要なことだと少し思えるようになってきました。

 

 

自分の可能性を信じて動いている時って動き過ぎてしまうと無理に自分を追い込むことにもなりかねないからなんですね。

 

 

そういう時って自分に目が向いている、というよりも外の方へ目が向いているのではないかな?と思うのです。

 

 

だから、ここのバランスが大切なんだと思います。

 

 

自分の事を信じながらも、自分に無理がかかりすぎていないか?

 

 

逆に無理してでも今乗り切る必要があるのかもしれないし、そうでもないのかもしれない。

 

 

自分との相談をバランスよくとりながら自分の可能性を広げていく。

 

 

どちらも必要なことなんだと少し思えるようになってきました。

 

 

落ち込んでいたり、自分が信じれない時には自分の負の部分を見ながらも自分自身に対して内面的には目が向いているんですよね。

 

 

自分のキレイな部分だけを見ているだけでは周りに対してだけでなく、自分自身に対してもうわべの自分しか見ていない、知らないようなものです。

 

 

そんな自分の言動には深みも重みもないとボクは思っています。

 

 

自分自身の負の部分や醜く汚い部分、欲望や我欲、煩悩がある己から目を逸らさずに見つめる事で人としての深みが広がってくると思います。

 

 

心身ともに自分を見つめることは哲学でもあり、人生そのものにもなるのではないのかなと。

 

 

意識高い系ではなく、意志を見つめる系。

 

 

それだけでいいのではないかなと思います。

 

 

 

 

より深く潜る

 

どうも、カシューナッツです。

 

しばらく忙しくて書けていなかったんですが、仕事の合間に氣づいたことをメモしていたので少しずつそこから書いて行こうと思います。

 

 

 

みなさんはふと疑問を持つ時ってありませんか?

 

 

何氣ない事や悩んでいる事、色々あるも思いますがなかなか答えが出ない時とふと突然閃くように答えが湧いて出てくることがあります。

 

 

ボクはだいたい答えが出てくる時ってぼーっとしながら疑問を自分に投げかけていると「!」ってなったり、いつもとは違う角度で疑問を自分に投げると「!!」って閃いている氣がします。笑

 

 

この答えが出てくる時の感じなんですが、今回閃いたのはこの自分に投げかける疑問、質問自体の仕方についてでした。

 

 

いつもは「なんでこうなんだろうなぁ〜?」って感じでぼーっとしながらなんですが、

 

 

今回は「どうやったらこうなるだろうなぁ〜?」って感じだったんですね。

 

 

たまたまFacebookの投稿で質問の仕方で単語を「なんで」ではなくその前に「どうやって」っていう質問を先にするという内容を前日に目にしていたんです。

 

 

その時はふーんくらいで流してたんですが…

 

 

ぼーっとしている時に…

 

 

「この問題も何での前に、相手の視点でどうしてそうなったか?から入るともっと観やすくなるんじゃないかな?」と繋がったんですね〜。

 

 

より深く自問自答しながら物事の本質に触れようとするとその分、自分へ投げかける疑問や質問の質もより深度を深めていくことで見えてくるものが違ってくるな〜と思いました。

 

 

 

 

自分はどこにでもいた

 

どうも、カシューナッツです。

 

前回のお話からずいぶんお久しぶりです。

うだつの上がらないおれ - カラダとココロのコト

 

 

「あなたはいつまでそんなところでうじうじしてるのですか?」と声をかけられた。

 

 

自分の内側から聴こえた声にはっと気がついた。

 

 

「あ、そうか。別に俺は望もうが望ままいが行くところには行ってるんだ。」

 

 

正直、「おれ」はだらだらするのが好きな人間。

人と付き合うのもしなくていいならしなくてもいい。

 

 

でも、仕事ではやらなければならないような必要な流れがやってくるし、自然と自分や目の前の物事と向き合うことで開かれていく道がある事に気づいた。

 

 

「そういや、なにかにずっと導かれるように色々やってきたな。」

 

 

子どもの頃、「おれ」は小児アトピーで毎晩全身が痒くて血だらけになりながら眠れない日々が続いていた。

 

 

そんな自分の心配してか、親がちょっとした宗教じみた会に入り、子どもながらに「おれ」も何度も話を聞かされていた。

 

 

そんな子ども時代があったからか、大人になってからも自分なりに興味のあるスピリチュアルな事を調べたり、本やブログを読んだりしていたことがあった。

 

 

目に見えない話の部分はさておき、自分にとって今でも役にたっているのは物事の流れに対しての自分の心の持ちようというのはずいぶんと楽にいれていたと思う。

 

 

「起きてもいないことを心配するよりも目の前ことに集中する」

「どうにもならない事は心の片隅に置いといて他の事に取り組む」

「やるべき流れは必要なタイミングでやってくる」

など、占いにも書かれそうな言葉だけど、

物事にはタイミングや流れや必然性というのはあるんだなぁと思うような出来事は「おれ」自身もいくつか経験してきた。

 

 

心の在り方や持ちようというのは何も心理学や自己啓発、哲学の分野だけでなく、それこそ心というもの自体「見えないもの」だけど、自分の中には「在る」ものだからこそ様々な分野で大切にされているんだろうなぁと思う。

 

 

知るべき必要があるものは自然と目の前にやってくる。

 

 

身体を通して仕事をしてても、自分に出来るのは「相手の身体の自然治癒力や本人の意思の手助けやきっかけ作りをするだけ。」

 

 

相手の身体の流れに任せる。

自分に出来る努力はする必要はあるとは思うけども、相手がその気が無ければその意思を尊重する。

 

 

相手が頑張りたくないのに頑張らせるのも違うし、そもそも変わることを望んでいないのに手助けはできないし、したくない。

 

 

身体の事なのに、そこには相手の心、見えない部分が伴っていなければ成り立たない仕事なんだと「おれ」は思っている。

 

 

だから、せめてそこにまず「楽しい」があれば相手の中にも「ちょっとやってみようかな?」が出てきてくれればいいと思っている。

 

 

「おれ」にできるのはそれくらいのこと。

 

 

だから自分にやりたいことなんかないし、自分が居る場所でやる事に区切りがつけばまた別の場所かなとも思ってる。

 

 

そういう意味では自分が本気で相手の手助けをしたいと思えていないから独立まで至らないのかもしれないな。

 

 

やりたいことはないけど、どこにいてもその場その場で自分がやるべき事はやってきた。そんな気がする。

 

 

おわり

過程をみせる

 

 

どうも、カシューナッツです。

前回の物語の続きがまとまらないので

ちょっと別のお話を。

 

 

人は集団の中にいると色々揉め事も起きやすいです。

 

 

特にコミュニケーションでのズレは日常茶飯事ですね。

 

原因は言葉の深度の違いや文化、生き方、価値観などのズレから受け手と話し手の意図がズレていきやすいとボクは思っています。

 

 

このコミュニケーションのズレを埋めるために組織の行動理念やグループ内でのルールや共通認識を創るわけです。

 

 

ココが明確でないと組織の風土や、目的地、行動指針が決まらないので行き当たりばったりになりやすいと思っています。

(ボクの仕事場はココが明確でないので色々と人の間に挟まれてパイプ役をしないといけないのかなー?とよく思います汗)

 

 

ただ変化が激しく先の見通しがしづらい今の世の中で何を大事にするのかを常に考え続けることが一番大切なのかもしれませんね。

 

 

話が少し逸れますが、個人単位でのコミュニケーションや物事を進める時に陥りやすいポイントについて話そうと思います。

 

 

物語の流れを構成する時に起承転結が必ずあります。

 

 

これは人に物事を説明する時にも必要なポイントだと思っています。

 

 

いきなり結論や結果だけを説明されると察しがいい人はわかるかもしれませんが、大抵の人は「??」ってなります。

 

 

自分が何を意図してその話をしているのか。

何でその意図をしたいと思ったかという経緯。

 

 

結果には必ずその考えに至った過程や理由が存在するはずなんですね。

 

 

起承転結でいう「承転」の部分です。

「第一句(起句)でうたい起こし、第二句(承句)でこれを受けて発展させ、第三句(転句)で場面や視点を転じ、第四句(結句)でこれらを受けつつ全体をしめくくる。 また、文章や話などで全体を秩序正しくまとめる構成の意として用いられる。」(goo辞典より引用)

 

 

話のオチというのも最後の締めくくりとして聞く時に楽しい部分ですが、それらを楽しむまでの過程の部分がどのくらい膨らみがあるかでオチまでの期待が高まります。

 

 

手品などでもタネは意外にも簡単なものなのにその中身をいかに魔法であるかのように魅せるかという膨らみの部分が素敵な程、より期待が高まるんですよね。

 

この膨らみ部分がどれも過程に当たります。

 

 

ボク自身、この膨らみの部分を大切にしています。

 

 

お客さんに「じゃあ今日はこれをやりますよー」と最初に促し、

 

「この運動はココとココをほぐして、身体のこの痛みや硬さを減らすことに繋がりますね〜。」と説明し、

 

 

「すると歩きやすくなったり、こういう動きがしやすくなるんですよー」と話しています。

 

 

ひとつの運動をやる理由、メリット、やった後に何が変わるのか、その結果どういう未来に繋がるのかまでを毎回簡単に短くですが説明しながらやってるんですね。

 

 

それは個人でも集団でも同じです。

 

 

いかに受け手がひとつの行動をした結果、その過程で変化が起き、どういう未来に繋がるかの想像を一緒に出来るかが重要だと思っています。

 

単純なメリットだけで盲目にやり続けるよりも、こちらのイメージしている結果を伝えながら、それを受け手が明確にイメージできたり、感覚として実感出来れば、受け手のモチベーションにも繋がります。

 

 

同時にお互いの信頼関係を深めることにもなるし、より深い共通認識が築かれるからなんですね。

 

 

だからいかに優れたメソッドや手段を持っていても、受け手に理解されなければただの自己満足だと思っていますし、やる側も続かないと思うんですね。

 

少なくともボクはそうです笑

 

 

相手がコレは意味がある!と少しでも思ってもらえなければただ時間を浪費しているだけと思いますし、人によってはそれでいいのならそれでいいかと考えていますね。

 

 

日本舞踊や能、歌舞伎などでもある「間」というものも、いかに動きだけではなくこの静止した状態での表現に膨らみや奥行を持たせるかというのが日本文化の奥ゆかしさという素敵な言葉の表現にもなると思っています。

 

 

 

うだつの上がらないおれ

 

どうも、カシューナッツです。

今回は物語を書いてみようと思いましたので、どうか面白ネタとしてお楽しみください。

 

 

 

・・・・・・・・・

 

迷ってばかりの人生。

 

そんな「おれ」の行き着く先にはなにがあるのか…?

 

 

朝、外が明るくなってきて、目が覚める。

そこから布団の中で2、3度寝返りをうってようやく起きる。

 

 

「ああ、今日もはじまった…。」

 

 

こんな感じで一日を毎日はじめる「おれ」。

 

 

よろよろと階段を登って洗面所で顔を洗って髭を適当に剃る。

 

 

着替えたら階段を降りて朝食の用意をしつつ、食器の片付けを行う。

 

 

家族全員が家を出るのを見届けて朝のルーティンの体操を行って、職場へと自転車を走らせるおれ。

 

 

「はぁ〜めんどくさいなぁ…。」

 

 

平凡な毎日の繰り返しの中には、いつも小さな事件から大きなイベントまで盛りだくさんである。

 

 

「今日は何をすればいいんですか?先生。」

 

 

職場に着くとほぼ毎日聞く言葉。

言葉にならなくても顔にかいてある…。

 

 

「ああ、コレとアレとやりましょー。」

 

 

いつもニコニコとしながらゲラゲラ適当な言葉を並べ立てては場を盛り上げつつ仕事をする。

 

 

これが「おれ」の仕事。

 

 

「別に楽しくないわけじゃあないんだけどなぁ〜」

 

 

そう。別に楽しくないわけではなくて、それなりには仕事も毎日も楽しめている。

 

 

ただ、少しずつ平凡な日常というのは心の内のどこかがすり減っていく。そんな感じがするのである。

 

 

「昔はもっとやる気あったんだけどなぁ…。」

 

 

色んなことを試した。

 

仕事道具を作ってみたり、お客さんと一緒に小道具作りをしてみたり、お客さんの為に、職場の為に、相手の為になることなら何だってやってきたつもりだった。

 

けど、どれも上手くいかないどころか、一度やり始めるとどんどんと面倒な事を頼まれだし、しまいには自分の重荷となるのでいつの間にか辞めていた。

 

 

「ああ、楽がしたい。」

「つまらないなぁ…」

 

これが今も昔も変わらないおれの口癖だった。

 

 

楽はしたい。けど、楽しいこともしたいと自分で矛盾しつつも思っていたことだったんだ。

 

 

そんな中、休憩時間にスマホをいじりながらSNSを見ていると、自分の周りで自営業や個人事業主として活躍している人をいつも目の当たりにしていると湧いてくる想いがある。

 

 

「おれはいつまでこんなことしてんだろ…。」

 

 

周りで活躍している人達からも「いつになったら始めるの?」と以前はよく声をかけられていた。

 

 

「そんなのおれが1番知りたいよ…。」

「でも、一歩踏み出すのが怖いんだよ。」

 

 

いつもここで止まっている。

そんなうだつの上がらないおれが憎い。

 

 

あと一歩のところに来るといつもビビって進めない。

 

 

それが自由な人と社畜の壁なんだろうといつも心のどこかで思っている。

 

 

そんな時、「あなたはいつまでそんなところでうじうじしてるのですか?」と声をかけられた。

 

 

 

つづく