自分はどこにでもいた
どうも、カシューナッツです。
前回のお話からずいぶんお久しぶりです。
「あなたはいつまでそんなところでうじうじしてるのですか?」と声をかけられた。
自分の内側から聴こえた声にはっと気がついた。
「あ、そうか。別に俺は望もうが望ままいが行くところには行ってるんだ。」
正直、「おれ」はだらだらするのが好きな人間。
人と付き合うのもしなくていいならしなくてもいい。
でも、仕事ではやらなければならないような必要な流れがやってくるし、自然と自分や目の前の物事と向き合うことで開かれていく道がある事に気づいた。
「そういや、なにかにずっと導かれるように色々やってきたな。」
子どもの頃、「おれ」は小児アトピーで毎晩全身が痒くて血だらけになりながら眠れない日々が続いていた。
そんな自分の心配してか、親がちょっとした宗教じみた会に入り、子どもながらに「おれ」も何度も話を聞かされていた。
そんな子ども時代があったからか、大人になってからも自分なりに興味のあるスピリチュアルな事を調べたり、本やブログを読んだりしていたことがあった。
目に見えない話の部分はさておき、自分にとって今でも役にたっているのは物事の流れに対しての自分の心の持ちようというのはずいぶんと楽にいれていたと思う。
「起きてもいないことを心配するよりも目の前ことに集中する」
「どうにもならない事は心の片隅に置いといて他の事に取り組む」
「やるべき流れは必要なタイミングでやってくる」
など、占いにも書かれそうな言葉だけど、
物事にはタイミングや流れや必然性というのはあるんだなぁと思うような出来事は「おれ」自身もいくつか経験してきた。
心の在り方や持ちようというのは何も心理学や自己啓発、哲学の分野だけでなく、それこそ心というもの自体「見えないもの」だけど、自分の中には「在る」ものだからこそ様々な分野で大切にされているんだろうなぁと思う。
知るべき必要があるものは自然と目の前にやってくる。
身体を通して仕事をしてても、自分に出来るのは「相手の身体の自然治癒力や本人の意思の手助けやきっかけ作りをするだけ。」
相手の身体の流れに任せる。
自分に出来る努力はする必要はあるとは思うけども、相手がその気が無ければその意思を尊重する。
相手が頑張りたくないのに頑張らせるのも違うし、そもそも変わることを望んでいないのに手助けはできないし、したくない。
身体の事なのに、そこには相手の心、見えない部分が伴っていなければ成り立たない仕事なんだと「おれ」は思っている。
だから、せめてそこにまず「楽しい」があれば相手の中にも「ちょっとやってみようかな?」が出てきてくれればいいと思っている。
「おれ」にできるのはそれくらいのこと。
だから自分にやりたいことなんかないし、自分が居る場所でやる事に区切りがつけばまた別の場所かなとも思ってる。
そういう意味では自分が本気で相手の手助けをしたいと思えていないから独立まで至らないのかもしれないな。
やりたいことはないけど、どこにいてもその場その場で自分がやるべき事はやってきた。そんな気がする。
おわり