内包する自分
「共感性、寄り添い」が高い、または優れている。
それは同時に「自分というものはいったいどこに居るんだろう?」とも強く思った。
個としての自分の存在意義に悩む日々。
自分がわからない。
自分という人間そのものがどこにあるのかわからない。
ころころと変わる自分の多彩さがより自分という人間の性格、表情、表現のパターンや特徴をより掴みにくくしていた。
それと同時に「ボクもあの人みたいにこんな風に羽ばたきたいなぁ。こんな場所で輝きたいなぁ。」と思うことがさらに自分への葛藤を生み出した。
でも、そんな多彩な多様な自分にお疲れ様を言えるようになって少しずつ気づくことがあった。
「自分が誰でも許し、癒しているのはこの多彩さや寄り添いがあるからなんだよな。」
無意識に氣がつくと相手の心の言いたいことが、なんとなく掴める氣がして、話していると他の人が嫌と言っていることも「まぁこの人なりにこういった理由があるものね~」と周りに説明している自分がいる。
他の人が壁と思っているコトを壁ではなく、ただ根本的なところではシンプルに
「ホントはただ寂しいだけだよね。」とか
「独りで聞いてくれる人が居ないからだよね。」とか相手の心の側に立って自然と見えてい自分がいる。
たくさんの人と関わってきたからこそ見える視点がある。
色んな人の立場や境遇に寄り添ってきたからこそわかる本音がある。
それは能力でもあり、経験でもある。
それを包める自分がいる。
これからは目の前の人だけでなく、
自分の手の届かない場所にいる本音にも届く
表現がある。
そんな氣がしてならない。