カラダとココロのコト

ゆるゆると歩く道

誰かの言葉を借りること


どうも、カシューナッツです。


ボクは以前からこういった何かを書いていていつも頭にふと浮かぶ言葉がその都度あるんですね。


誰かの言葉を借りていいものなのか?と。



誰かが言った言葉を引き合いにだしていいものかといつも思ってしまう自分がいます。



誰かの放った言葉を借りて伝えるのは独自性とは言えないのではないだろうか?



虎の威を借る狐のように過去の偉人であったり、自分の尊敬する人の言葉を使って伝えることは自分が言っていないというか、自分の言葉て話していない気がいつもしていて、言葉に詰まり、いつも躊躇してしまうんですよね。



自分の伝えたいことが薄れてしまうのでは無いだろうか?と。



(そもそも自分の言葉をどれだけの方は届くのかはわからないので、届く届かないもないのかもしれませんが汗)


ただ自分のこのやり方を続けるのも自分がよりやりたいこと、伝えたいことがあった時に半歩踏み出して伝える為には、自分の言葉だけで伝えるのか、それとも誰かの言葉を借りつつ、自分の言葉も上乗せして伝えるのかと考えると自分が伝わると感じた方を採用する方が良いと感じる方を選ぶべきなんだろうなと書きながら思えました。



そもそも誰かが言っていたというのをボクが使う時に感じるものは、「例題」なんですよね。



その人の言葉がというよりも、「その人」という人物は少なくともボク自身よりも名の知れた方なのです。



ボクよりも名の知れた人が言う言葉。



影響力も然ることながら、
【その人の発信してきた言葉やモノ】
【その人の人となりという背景】



この部分が少なくともボクの言いたいこと、伝えたい部分の方向性や意志に合致するとボク自身が思っているからこそその方の言葉を引き合いにだしている…。ということなんですね。



この部分が自分でわかり、腑に落ちたのは少しほっとしました。


発信することが少し怖かったのと、誰かの言葉を借りて書くのは自分が薄っぺらい人間なんじゃないかという畏怖と遠慮を自分で思い込んでいたからなんですね。


でも、学問もそうですが、知識や知恵や文化、歴史というのは人類が得たものの積み重ねなんですね。


誰かの掛け合わせや削ぎ落としで今の時代や生活があるものなんです。


誰かが創ったものを使っている。


そう考えると、言葉もおなじです。


流行語もそうですしおなじ言語でコミュニケーションをしている。


伝えることも然り。



誰かの言葉を借りたとしても、それを自分の意志として放つのならまた違うなと。



それに本気で自分が伝えようとするのなら遠慮なんてしていられませんしね。



はぁ、お陰でスッキリしました。
胸のつかえがとれたようです笑

多面的と単一性


どうも、カシューナッツです。


人間は共感する能力を持っています。
相手の気持ちを何となく察したり、自分も相手と同じような気持ちになりやすいところがあってもらい泣きとかしますよね。


コミュニケーションにおいてもそれは当てはまり、どんな人にも合わせれたり、逆に相手の気持ちが全くわからず、自分の思ったことが出すぎてしまったりと空気を読む読めない人どちらもあると思います。


どちらも行き過ぎれば生きずらいでしょう。
人に合わせすぎると自分の意志がわからず、人疲れを起こすし、自分の思ったことを貫き過ぎれば周りとの折り合いをつけにくくなる。


ボクは比較的誰にでも合わせれる方なので、相手の空気に流されやすい傾向があります。
相手と話していて自分の意にそぐわなくてもそこを断ると相手のどこが苦しくなるのか何となく感覚的に想像してしまうんですね。
(特にセールスとかは苦手です汗)


しかし、仕事の際にはここら辺は譲らなくなるんですね。自分の信念があるというか、この分野には自分なりに掴んできたものがあるという感覚があるからブレにくい。そんな感じです。


自分の中でオンオフを分けている感覚。


多くの人にあるこの感覚なんですが、自分が休みたい時とか気合いを入れたい時にはいいのですがね、この頃、そこには落とし穴があるように思えます。


プライベートと仕事や家庭。場面ごとで自分というものが違う感覚。演じている自分が違うからですね。


切り替えるといえば聞こえはいいですが、ボクは自分自身が本質的に解離しているとも思えるようになってきました。


どれも自分自身であり、どんな自分がいてもいいのは本当です。


しかし、違いがあることとズレがあるのとでは少し違うのではないか?と。


違う自分がいるのはいいと思います。

しかし、違う場面で自分の意志がズレるのはどうかと。


仕事でも家庭でも、自分の自由時間やどんな場面でも原理であったり、本質の部分は深いところではなにか共通したものがあるのではないかな?という風になんとなく思うようになってきました。


様はどんな場所でも裏表のない自分…少し違う気もしますがまたしっくりくるものがあればまたその時に…。


今回の内容も前回、ご紹介した超躍しりとりのポッドキャストを聴いていてふと思ったことでしたが、ボク自身も出世ゲームには興味のない人間だったなぁと思いました。
(むしろ正反対くらいでしたね笑)


ボクもオリジナリティ(独自性)・レボリューショナル(革命性)・タイムレス(普遍性)のアイデアをいつもコンセプトとして学び、提供し続ける生き方をしようと思いました。


もっと原理性の深度を深めつつ、人生を長い道として捉えるように心がけます。
(浅くまとめ過ぎました汗)



追記:自分というのはどの場面でも一人しか居なくて、その自分がその場その場で違う顔をしているだけ。という事に気づきました。
ただの自分でいることがボク自身にはなかなか気づきづらく、常に一歩引くことがその状態でいるヒントかなと思っています。
ボクの中の身体感覚的では落ち着いた静かな感覚を感じられている状態がそこかなと今のところ思っています。

揺らぎ


どうも、カシューナッツです。


さて、つい最近、ポッドキャストで聴いて
おっ、と思ったことがありました。


ボクが参考にさせて頂いてる、身体思想家の方条遼雨さんが3人で異色のトーク「超躍しりとり」というのを始められて、いいヒントをもらいました。



それは、物事の間で揺れること。


未知と既知のバランスであったり、
完全と不完全との間で揺らいだり、
物事は白黒つけれないことも多いんですよね。

むしろ、グレーの方がほとんど。


人の解釈って違うし、だからそこをある程度標準化や一般化しようとして概念という言葉や○○とは?というものでまとめようとする。


人の理解なんてあてにならないなーとも思ったんですね。


でも、そこが面白いなとも思ったんですね。


伝える立場からすれば、より広く多くの人に伝えようとすればできるだけわかりやすく、難しくないように…って思いがち。


けれどそこをあえて置いてけぼりにしていく。


そうするとそこについて行こうとする人、わかろうと必死になる人もいるわけでして、かえって枠の中で喋るよりも枠の少し外から話す方がそこに行こうとする人たちもいるってこと。


ボクも仕事でわかりやすくやってもらうことを意識してやっていますが、だんだんと自分がつまらないな〜って思うようになってくるんですよね。どこか物足りないといいますか。


少し大変だったり、キツイけど、相手を信じて半歩先のモノを提供する方が相手も自分も楽しかったりすることもあるんですよね。


お話を聴いていて、ボクも常に半歩前に出たくらいで提供し続けること、言葉という不完全で限界のあるツールを使いながらもどこまでを伝えられるのかを意識しながらやっていこうと思いました。


ボクの言葉はよく言葉が足りない、とよく言われるのでそこももう少し工夫しようかなと思いました(笑)

和ではないけど確かにそこに在る


どうも、カシューナッツです。


身体の使い方をやっているとよくある
ことかもしれませんが…


書籍やYouTubeの動画とかで、「??…一体、どーやったらこんな動きできるの?」って動きや身体の使い方を見るとやりたくなったりすると思います(笑)


身体の使い方って原理や理屈もあるのである程度の説明って可能なんですけど、やっぱり感覚的な部分も多いんですよね。



この感覚の部分の表現というのが人により違い、解釈自体がひとりひとり違うから表現も沢山あるようになるんですよね。



だから、もし伝えようとなるとやはり身体の事なので直接対面でないと伝えづらいところもある。



毎日、自分の中の言いたいことをあーでもない、こーでもないと目の前の人の身体が感じていることにボク自身の解釈を伝えることもしていますが、これがなかなかに伝わらない(笑)



だって相手自身が感じていることに気づいてないから。


感じてないわけではないが、感じていることを解釈していなかったり、できなかったりしていることが多いのでボクなりの表現を伝えたりもしています。


ホント言うと相手の身体の中から出てくる答えを待つのが本当かも知れませんが、そこはボクのやり方を変える必要が出てきた時にでいいかなと。



さて冒頭の話に戻りますが、身体の動きを続けているとある時急にできなかったことができたり、解ったりすることが何度もありました。



身体の使い方、動きの原理とも言うべき部分を色々変えながら、その部分を変える度に、リセットまたはゼロに戻してはじめからやるということを繰り返していると、身体そのものも変わっているのではないだろうかと思うようになってきました。


今までやってきたことを忘れる…厳密には忘れてはないのですがそれまでやり続けてたことをスッパリやめてしまうこと、みたいな感じですね。


それをしているはずなのに身体のどこかには蓄積されているのか、動きの質が変わっているような気がしてくるんですよね。


足し算はしていない、むしろ引き算をしているはずなのに、そこには残っている。


そんな感じがするんです。


ただ、ボクはセラピストで対面で武術家のような技をかけたりすることはしていないので、

(合気上げとかは練習してみましたが、うまくいきませんでした。泣)

より身体の使い方やそれを施術に活かされている方よりはやっていることは浅いかも知れません。



ですが、相手に触れる感じや、伝えれることはそれでも変わってきたように思えます。


これまでの生きてきた身体が伝えれることもあるんだなぁと時々思います。

疲労と余裕


「最近、疲れてない?」


「...?、なんで?」


「だってあなた、この頃イライラしやすいもの」


…なぁーんてこと言われたことありませんか?



どうも、カシューナッツです。


ただいま夏でくそあつい中、おまけに
いろんなストレス事も多く、疲れが溜まりやすい時期です。



人間、疲れてくると余裕が無くなり、
ちょっとしたことで腹が立ったり、
感情の起伏が激しくなりやすくなります。


さて、この余裕とはなんでしょうか?



気持ち(心)の余裕

体調の余裕

体力の余裕

気力の余裕


身体や心の余裕・余白というものが挙げらるとボクは思います



ボクが思う身体の余裕・余白というのは、身体の「あそび」がある
という解釈です。


身体が固まっていると、動きにキレがなくなり、
とっさの動きができなかったり、疲労が抜けにくくなり、
身体の故障(ケガ)に繋がります。



気持ちの余裕というのは、ストレスへの耐性であったり、
目の前の出来事に対しての穏やかさの容量というか
起きたことに対する器の大きさではないかと
思っています。
(自分の解釈ですのでご容赦ください。)



身体と心の余裕は表裏一体でして、
身体が疲れていると心のコップの中身も
いっぱいになってしまいます。



でも、そうは言ってもなかなかどちらもいつも
余裕で居ることは容易ではありません。



他人をコントロールすることは出来ないのと...

自分自身と対話しながら周囲の状況に対応していくこともまた、
容易ではないからです。



休憩したり、気分転換をしたり、自分の好きなことをする以外にも
ボク自身が最近気をつけているのは、「周りの空気を軽くすること」です。



具体的には、テキトーなくだらないことを言ったり、やって見せることで周囲を「笑わせる」
ことで場の空気を軽くするようにしていました。



「笑い」は柔軟かつ和みやすく、何より楽しいですよね。



ボク自身はもともと周囲の空気や人に流されやすいところがあるので、
逆を言えば、「場の空気を創り出しやすい」ところがあることにも
気づけました。



人を笑わすことって、案外そんなに難しいことではないんです。



基本的に自分が言ってて、やってて楽しいことを
やることが笑いに繋がりやすいんですよw



あと、笑わすことってね...
その場の全員が笑う必要はないんですね。



場の中には笑いのツボが広い人もいたり、
笑うだけで盛り上がりやすくなって、
他の人の笑いを誘う人がだいたい居るからです。



最初は、一対一でちょっとのことで笑いやすい人を
笑わせてみるといいと思います。



だんだんと自信がついてきますし、
自分も楽しくなってくるからなんですね。



話が笑いになりましたが、疲労と余裕の
バランスを取るためにも自分が笑えることを
自分の中心に持ってくると自分自身が楽になってきますよ。



まずは自分からだと思います。

その違和感を見逃さない


どうも、カシューナッツです。


最近、掃除中に足の小指の爪を傷めてしまい、
靴を履くよりも草履がとても快適です。
(元から草履派なんですが)



…ふとした時に、何気なく違和感を
感じる時ってありませんか?



そして、その後に起きたことで
「ああ、やっぱりおかしかったか」
みたいなことってありませんか?



ボクはちょこちょこあったりするんですけど、
これって直感とも言えますが、その直感自体を
感じている感覚そのものが【身体の感覚】だと思ったんですね。



何気ない違和感や肌がピリつく感じ…


胸や腹を掴まれるようななんとも言えない感覚…


この違和感を見逃さないことって大事だと思うんです。



そういう感覚がある時ほど油断しないというか
次に起こる展開に気を引き締める感じっていうんですかね、自分の身体で感じる小さな違和感を軽く見ない方がいいと思います。



例え、次の瞬間に何も起きなかったとしても…



それが繰り返されてきて、ふと油断した時に
事故やトラブルは起きるものですから。



まぁ座して待って、それを学ぶのも
大切だとは思いますが、油断ばかりでは
ひと昔前のことならやられてしまいますからね。


普段から研ぎ澄まして置いた上で
あえて待つことと…


常に油断だらけで気の抜けた状態でいるのとではまるで意味が違うと思いますから。

認知していない世界

 

あなたは自分の家のリビングにあるテーブルに飲みかけの

水の入ったコップを置き、ソファーで別の作業をしていました。

 

またのどが渇いたので、テーブルの上にあった水を飲もうとコップを

手に取ろうとすると、さっき置いた場所とは別のところに置かれていました。

 

「?」

 

不思議に思ったあなたは、コップを元の場所へ

また作業に取り掛かりました。

 

 

数十分後、またのどが渇いたあなたはコップの水を飲もうと思って

またリビングへ行きました。

 

 

すると、またコップの場所がさっきと違っていたのです。

 

「っ!?」

 

あなたは鳥肌が立ち、わけがわからずだんだんと恐ろしくなってきました。

 

 

この時、家にはあなたかしか居なかったので、

夜は恐くて恐くて眠れませんでした。

 

翌日、あなたは仕事の同僚と昼食の際に、

昨日のことを話しました。

 

 

すると、同僚の口から…

 

 

「お前、それ仕事の時も時々あるじゃん。」

と言われたのです。

 

 

「えっ」

 

 

「いや最近、お前の顔疲れてるし、やること多くて忙しいから

資料の紙を自分でデスクの上に置いてたのに、自分で置いたことを忘れて

”どこやったっけ?”ってよく言ってるじゃないか。それとおなじことじゃねぇの?」

 

 

「そ、そんなことは…」

 

 

(確かに、自分はこのところ疲れていて、夜もろくに眠れていないし、

妻にもよくボーっとしてて話を聞いていないじゃないとよく言われていたな・・・。)

 

 

「ほら、心当たりあったろ?」

 

 

「う、うん」

 

 

そう、あなたは疲れとストレスから自分が無意識にとっていた行動を

忘れていたのです。

 

 

ヒトは極度に疲れたり、過度なストレスに晒された状態が続くと、

認識することが薄れやすくなります。特に同時にいくつもの課題をこなしている時はさらに集中力を必要とするので、無意識下の行動となり易く、その行動をしたことさえも認知していなかったりします。

 

 

例えば、日常的な行動、スマホをいじりながら歯を磨いたり、テレビを観ながらご飯を食べていたり、音楽を聴きながら車を運転したりと、普段の生活のなかで当たり前と思って行動していることほど、認識が薄れたり、忘れやすくなりますね。

 

 

ボクたちは日々の生活のなかで常にたくさんの課題を同時に行っています。

 

 

PCやスマホとどんどん生活は便利になっていますが、目に見えない影響も身体や心に多く受けているんですね。

 

 

ボクたちはこの認知していないコトが増えるほどに身体や心はより疲れ、

気づかないうちに見えない傷を自分やまわりにもつけていくことになるかも知れませんません。

 

 

認知していないことに気づくのはある意味とても怖いです。

自分は問題ないと思っているのですから、それを指摘されるのは

とても心に負担がかかるかもしれません。

 

 

ですが、人はそこに気づく必要があるから指摘があるのだと思います。

 

 

今回の内容は疲れやストレスというカタチでしたが、

もっとわかりにくく、あなたの人間関係の問題や仕事の問題、

家庭の問題などさまざまなケースでこの指摘というのは生じてくるものと

思われます。

 

 

この認知していない世界を認知することを

あなたが受け入れた時、あなたの見える世界が

またひとつ変わることに繋がるんじゃないかと

ボクはそう思います。