カラダとココロのコト

ゆるゆると歩く道

多面的と単一性


どうも、カシューナッツです。


人間は共感する能力を持っています。
相手の気持ちを何となく察したり、自分も相手と同じような気持ちになりやすいところがあってもらい泣きとかしますよね。


コミュニケーションにおいてもそれは当てはまり、どんな人にも合わせれたり、逆に相手の気持ちが全くわからず、自分の思ったことが出すぎてしまったりと空気を読む読めない人どちらもあると思います。


どちらも行き過ぎれば生きずらいでしょう。
人に合わせすぎると自分の意志がわからず、人疲れを起こすし、自分の思ったことを貫き過ぎれば周りとの折り合いをつけにくくなる。


ボクは比較的誰にでも合わせれる方なので、相手の空気に流されやすい傾向があります。
相手と話していて自分の意にそぐわなくてもそこを断ると相手のどこが苦しくなるのか何となく感覚的に想像してしまうんですね。
(特にセールスとかは苦手です汗)


しかし、仕事の際にはここら辺は譲らなくなるんですね。自分の信念があるというか、この分野には自分なりに掴んできたものがあるという感覚があるからブレにくい。そんな感じです。


自分の中でオンオフを分けている感覚。


多くの人にあるこの感覚なんですが、自分が休みたい時とか気合いを入れたい時にはいいのですがね、この頃、そこには落とし穴があるように思えます。


プライベートと仕事や家庭。場面ごとで自分というものが違う感覚。演じている自分が違うからですね。


切り替えるといえば聞こえはいいですが、ボクは自分自身が本質的に解離しているとも思えるようになってきました。


どれも自分自身であり、どんな自分がいてもいいのは本当です。


しかし、違いがあることとズレがあるのとでは少し違うのではないか?と。


違う自分がいるのはいいと思います。

しかし、違う場面で自分の意志がズレるのはどうかと。


仕事でも家庭でも、自分の自由時間やどんな場面でも原理であったり、本質の部分は深いところではなにか共通したものがあるのではないかな?という風になんとなく思うようになってきました。


様はどんな場所でも裏表のない自分…少し違う気もしますがまたしっくりくるものがあればまたその時に…。


今回の内容も前回、ご紹介した超躍しりとりのポッドキャストを聴いていてふと思ったことでしたが、ボク自身も出世ゲームには興味のない人間だったなぁと思いました。
(むしろ正反対くらいでしたね笑)


ボクもオリジナリティ(独自性)・レボリューショナル(革命性)・タイムレス(普遍性)のアイデアをいつもコンセプトとして学び、提供し続ける生き方をしようと思いました。


もっと原理性の深度を深めつつ、人生を長い道として捉えるように心がけます。
(浅くまとめ過ぎました汗)



追記:自分というのはどの場面でも一人しか居なくて、その自分がその場その場で違う顔をしているだけ。という事に気づきました。
ただの自分でいることがボク自身にはなかなか気づきづらく、常に一歩引くことがその状態でいるヒントかなと思っています。
ボクの中の身体感覚的では落ち着いた静かな感覚を感じられている状態がそこかなと今のところ思っています。