和ではないけど確かにそこに在る
どうも、カシューナッツです。
身体の使い方をやっているとよくある
ことかもしれませんが…
書籍やYouTubeの動画とかで、「??…一体、どーやったらこんな動きできるの?」って動きや身体の使い方を見るとやりたくなったりすると思います(笑)
身体の使い方って原理や理屈もあるのである程度の説明って可能なんですけど、やっぱり感覚的な部分も多いんですよね。
この感覚の部分の表現というのが人により違い、解釈自体がひとりひとり違うから表現も沢山あるようになるんですよね。
だから、もし伝えようとなるとやはり身体の事なので直接対面でないと伝えづらいところもある。
毎日、自分の中の言いたいことをあーでもない、こーでもないと目の前の人の身体が感じていることにボク自身の解釈を伝えることもしていますが、これがなかなかに伝わらない(笑)
だって相手自身が感じていることに気づいてないから。
感じてないわけではないが、感じていることを解釈していなかったり、できなかったりしていることが多いのでボクなりの表現を伝えたりもしています。
ホント言うと相手の身体の中から出てくる答えを待つのが本当かも知れませんが、そこはボクのやり方を変える必要が出てきた時にでいいかなと。
さて冒頭の話に戻りますが、身体の動きを続けているとある時急にできなかったことができたり、解ったりすることが何度もありました。
身体の使い方、動きの原理とも言うべき部分を色々変えながら、その部分を変える度に、リセットまたはゼロに戻してはじめからやるということを繰り返していると、身体そのものも変わっているのではないだろうかと思うようになってきました。
今までやってきたことを忘れる…厳密には忘れてはないのですがそれまでやり続けてたことをスッパリやめてしまうこと、みたいな感じですね。
それをしているはずなのに身体のどこかには蓄積されているのか、動きの質が変わっているような気がしてくるんですよね。
足し算はしていない、むしろ引き算をしているはずなのに、そこには残っている。
そんな感じがするんです。
ただ、ボクはセラピストで対面で武術家のような技をかけたりすることはしていないので、
(合気上げとかは練習してみましたが、うまくいきませんでした。泣)
より身体の使い方やそれを施術に活かされている方よりはやっていることは浅いかも知れません。
ですが、相手に触れる感じや、伝えれることはそれでも変わってきたように思えます。
これまでの生きてきた身体が伝えれることもあるんだなぁと時々思います。